言行一致の武道
言ってることとやってることが違うのは良くないと誰もが思う。
しかし言ってることとやってることがきっちり一致している人は多くない。意識できるところは言行一致、意識できないところは言行不一致というケースは多い。無論自分では気づけない。
合気道の稽古ではよくそういう光景に出会う。
力がぶつからない、流れるように、導く、などと言う言葉を使っていても、途中の一瞬に力がぶつかり、流れは途切れる、導きはなくなる。そこの辻褄を合わせようとして「投げよう」「技をかけよう」という無意識の働きが起こる。そこに乗ってしまうと「和合」とは程遠い、争いの技となる。
争いの技は投げられまい、技をかけられまいという体の反抗を生む。体の反抗は反抗心を生む。ここに受けと取りの間の心身の対立構造が生まれる。
いくら争わないようにと言葉で説明しても、技によって無意識に争いが生まれる。ここに気づくことで多くは2つの道に分かれる。
1つは争わない自分(取り)の技とあり方を追究する道、1つは相手(受け)に争わないことを要求する道。
どちらが良いか悪いかではなく、どちらの道を選択するか、がある。
どちらも争わなくなることには違いない。流れも途切れない。だが導きは?
導くとは自分が中心となること。我儘とは違う、自分という存在が中心となり、相手を導く。そこにあるのは自分という明確あり、そこに生まれた流れを邪魔しない自分、自分という世界の中心にあり、全てに働きかけながらその存在が無になっている自分がいる。
そういった自分になる道とはどちらなのか、そもそもそういった道を目指したいのか。
合気道はどのような取り組み方もできる。レクリエーションとして、体操として、武術として、武道として。
楽しいからやるというのもいい、体力増進のためにやるのもいい、怪我や病気のリハビリとしてやるのもいい、格闘技のヒントを求めてやるのもいい、護身のためにやるのもいい、ケンカの技術やるのも自由だ(あまり推奨はしないが)。だがそれは合気道の一側面でしかない。ここでは多少の言行不一致は許されるだろう。
開祖は合気道は武道であると言った。ならば武道としてやるとすれば言行不一致は許されない。愛を、和合を、導きを、開祖の言葉を合気道を通じて自分の言葉として紡ぎ、合気道をもって体現しなくては失礼というものだ。
合気道に失礼?開祖に失礼?いや武道というあり方と生き方が一致していない状態ではそもそも自分という存在に失礼だ。
武道は自分自身の生き方を、生かされ方を、自分の存在そのものを磨く道であり、古来より求められてきた「道」というものを武の稽古を通じて自分の中に見出していくことだ。
皆が武道を目指す必要はないかもしれない。だが武道を目指すのなら自分という存在に失礼のない武の道の歩き方をするのは当然のことだろう。
言葉にすると難しそうだが、これを簡単に表現するとこんな感じになる。
「自分に適う自分であること」
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません