学びが自分に響く

ここ数年、ふと気づいては心の中から打ち震えるような気持ちになるのが「自然呼吸」「動的瞑想」というものです。

呼吸・整体スクールでその考え方と共にワークを学ぶのですが、今思うとその凄さというか意味をよく分かっていませんでした。

時間が経つにつれ、ワークを重ねるにつれ、それが他の物事の中で意識されるにつれ、その凄さに気付くという感じで、ボディブローのようにじわじわと響いてきます。

ワークの動きとしては、身体を前に倒す・戻す、横に倒す・戻す、仰向けに寝て膝を倒す・戻すなど、身体が動かせる人であれば誰でもできるような動きです。

大事なのはその動きの中で身体に自然に起こってしまうことをキャッチし、従うこと。それが呼吸であったり、動きだったりするのですが、そこに非常に重要な要素があります。

その要素とは、

①自然に起こってしまうことを待つ

②それをキャッチする

③それに従う

という一見当たり前のようで普段の動きでは無視してしまうようなこと。

これを無視すると、日常の中では動きの中で息が止まる、身体が力む、といったことが起こり、積み重なると不調へと繋がります。

この3つの要素の重要性は、合気道の稽古の中で私は常々感じています。

簡単に言うと、これを無視すると技がかからないのです。正確には力任せに相手を投げたり押さえつけたりすることはできても、相手の力を利用するとか、相手を導く、といった合気道に不可欠な要素が無くなってしまうのです。

逆に考えると、これらの要素を含む動きによる技こそ合気道の技であるということ。つまり自然呼吸、動的瞑想が合気道の技の本質にあるということです。

自然呼吸や動的瞑想のワークをすると独特の雰囲気になるのですが、この感じが合気道の稽古の中で感じる「考えなくても自然に技がかかる感じ」「相手の動きや意図や反応がよく分かる感じ」と同じ感じなんですね。

自然呼吸、動的瞑想のワークをすると、短時間で合気道体とでもいうべき自分の状態が作れるわけです。いわば答えを先にもらってしまうということ。これを知った上で稽古するのと、知らずに稽古するのとでは稽古の意味が全く変わってしまいます。

今まで意味不明だった合気道の口伝や教えもストンと腑に落ちるようになりました。

ここで誤解するといけないのは、呼吸・整体にしても合気道にしても、特別なことをしているわけではなく、人間の持つ動きや働き、生きる営みにそれぞれ違う角度から光を当てて見ているに過ぎません。やり続けさえすれば誰でもできるし、理解しようとすれば誰でも理解できるものであるということです(ここでは触れませんでしたが、システマも同じです)。

こうした繋がりに気付くとそれぞれの学びにすごく価値を感じますし、面白味も増します。

呼吸・整体は本質的な学び、ということを合気道を通じて改めてひしひしと感じています。

雑記

Posted by koma-hiro