伝える、学ぶ、成長する
最近色々学んでいること同士の相互フィードバックが多い。
複数のものを同時に学ぶことでそれぞれに共通する原理や、それを表現する自分という存在が少しずつ明確になってきている気がする。
そうなってくると、それぞれのものが非常に深いところまで考えられた緻密な技術であることを実感させられる。
武道も治療も養生も瞑想も「自分を生きる」ことであり、「自分という存在のあり方を見つける、気づく」ためのものだということが見えてくる。
有形の成長から無形の成長へ。
人に何かを伝える、指導するということは有形から無形へと進むための橋渡しのようなもの。
守破離は学ぶ側の段階ではあるが、そのような段階を踏まえることのできる有形、無形の導きが指導する側には必要。
教育という言葉もそこに肝があるのではないか。
「教えたい」がために「育てる」ことをしない人は多い。
「育てる」と称して「教えない」人も多い。
有形で伝えるもの、無形で伝えるもの、その区別と段階、受け取る側の実力や素養の見極め。それをしながら自らも成長すること。
伝え手のやるべきことは多い。
有形の成長は量によるところが大きい。
無形の成長は質によるところが大きい。
こういうことを考えていると達人の伝えるもの、遺したものというのは質・量ともにこなすことで有形・無形の成長が生まれるように設計されているという感じがする。
成長がないのは受け取る側がそれを受け取るために必要な練習の質や量が足りていないことが多い。練習の方向性を違えていないことも重要。
結局「自分」と向き合うことになる。
そういう意味では自分が設定した目標にたどり着くかどうかは別にして、その人にとって必要な学びは間違いなく得られる。
向き合った「自分」とどう関わっていくのか?
それが「生きる」ということた。
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