受身という瞑想

合気道開祖・植芝盛平翁の言われる和合とはいかなるものか、それを自得するのが合気道家の目標の1つだと思います。

その前提として合気道の稽古とは瞑想であり、技をかける側の取りも技を受ける側の受けも最終的には瞑想という境地に至ると考えています。

ここで瞑想とは思考の本能が両立した状態を味わうことを指します。

受けの側の視点で考えていくと理解しやすいと思うので今回は受け(受身)に注目します。

①稽古の段階としてまずは受身から始まります。1人稽古で形を覚え、倒れた際に自然にその形で受身を取れるようにします。

②次の段階からは対人の稽古。取りの投げる、抑える等の行為に対してピッタリ合うように受身の形で受けられるようにします。

③その次は考えなくても技を受けた時に自然に体が動く段階。自分が攻撃し、これに取りが反応、その技によって体が自然に動かされ必要な受身を取るようになります。この段階に来る頃には有段者として袴をはいているかと思います。

ここから先は概ね三段以上というところでしょうか。分からない人はいつまでも分からない領域です。

④受けは取りの力みや投げようという意識を感じ取り、そういった要素からなる技を止めたり逃げたりすることができるようになってきます。

⑤その次は取りの力量も必要です。取りが対立を生まない技をかけるようになると受けは自分の与えた力が自分に返り、自分で自分を崩すということが起こります。

⑥最終的には互いの生む気の流れが有形無形の技を介して生まれていく、といったところです。

①と②は形と動きの鍛錬。③④あたりからは一部瞑想の要素があります。⑤⑥は瞑想そのものです。

③④は、受けが自分の意思で攻撃、それに対して技を受けることに自分の体が反応して受身を取り、それを自分が認識する、ということが起こります。相手の技の力を借りることで受けには一種の瞑想状態が生まれます。

⑤は取りも技をかける中で瞑想状態が体現されています。取りの存在はそこにあって無い状態です。それ故に受けの加えた力がぶつかることなくそのまま受けに返っていき、その力で受けは勝手に崩れていきます。取りを介してはいるものの、受けは自分の加えた力で自分を崩し、それを観察することになります。取りへの働きかけが結果的に瞑想になり、内観に繋がります。

高段の先生方の受けを取ることが自身の成長に繋がるというのは実はこの要素によるものが大きいと思います。

⑥は取りも受けも動くこと、行為そのものが瞑想になります。

互いにそこにあって無い状態。稽古としてはそこに受けがあえてきっかけを作る。互いに対立しようがなく、お互いの流れに乗っていくという感じ。

そこにはそこにあって無いという他に侵されることのない自分という存在があります。そうした1人1人の間に生まれる関係性を「和合」と呼ぶのだと思います。

表現を変えれば和合とは1人1人が自分という中心を持ちながら自立して存在しているとも言えます。

自立し、対立が無いからこそ生まれる自らを侵されず、他を侵さずという1人1人の在り方か「愛」であろうと思います。

自分という中心を持つこととは自分に沿った生き方、道を見出していくことであり、その現れ方は1人1人違っていて、それを個性と呼ぶのだと思います。

合気道は1人1人が道を見出すことで世界を作っていく武道。全ては人間とは?自分とは?という問いにつながっていきます。

古人はそれを「天命を知る」と表現したりもしています。

合気道は武の稽古を通じて天命を知るものであるとも言えます。

雑記

Posted by koma-hiro