ある日の勉強会にて

日頃お世話になっている治療家の先生との勉強会で話していた折、体の使い方の話になりました。

治療に必要な体の使い方のヒントを最近は合気道に求めていたそうで、実際にその方のやっているものを受けてから、こちらから解説付きで紹介しました。

おそらく想像していたよりも遥かに上の使い方だったのだと思いますが、最初はよく分からないと言いながら、途中からは「なるほど!良いこと言うね!」と、しきりに納得しておられました。

実際にやってみせたのは、力を出すこと、出し続けること、呼吸を全身に通すこと、それらが途中で途切れないように動くこと、それを1人でやるだけでなく対人でも同じことをやる、といったあたりです。

結果として相手とぶつからず、1つ1つの所作、治療の技の精度、結果などありとあらゆる要素が飛躍的にアップします。

また、動くとはどういうことか、動ける体とはどういうものか、相手の力を利用するとはどういうことか、型、所作の意味するところ、武道と治療の繋がりなどを自得していくことができます。

ただ日々患者さんを相手に治療していれば自然に身に付くようなものでもないですが、こうしたことを学ぶ、稽古することが全ての治療家に必要だとは思いません。

こうした内容は稽古の過程で自身の状態と相手の状態を感じ、向き合うことが大切になってきます。

動きやすいとは呼吸が途切れず自然に続くことであり、その前提があるからこそ自分のあり方が治療結果に反映されます。そのために何が必要かとなると、日々の自分自身のあり方から変わっていかなくてはなりません。

技術の向上のために変わるのではなく、技術をこされるために必要なことを淡々とやっていくと変わらざるを得ない。「変える」という意思があるのではなく、「変わる」という結果がある。変わった先にある自分と向き合う覚悟がなければ、この先の段階には踏み込めない、いやその人自身が踏み込まないと思います。

その人自身が治療というもの、技術を学ぶということをどこまでの領域と捉えて向かい合っているかによって、踏み込める領域も自ずと変わります。

知りたい方にとっては宝の山ですが、必要としていない方にとっては面倒臭い内容です。どちらが良い悪いではなく、その人がどう生き、何を選択するのかの違いです。

個人的にはこういうことを学ばず、身につけずして何の治療技術なのかと思っていますが、昨今は治療という言葉の意味するところはとても広くなっていますし、ビジネスとしての治療に取り入れるにはコストパフォーマンスが悪いと評価されると思います。

数十年先の未来、数百年先の未来を考えた時に、技術としてこれらのことを伝えていくこと、遺していくことには大きな意味があると考えています。

世の中には私など足元にも及ばない先生方が沢山いるので心配はないと思う反面、時間のかかる深い学びを嫌い、即効性や誰でもすぐできることを謳う学びに多くの人が惹きつけられる昨今の様子を見ると、遺せるものを手にした人間が積極的に遺していかないと、容易く失伝してしまう危惧もあります。

武道武術においてそうした話を聞いたり、そうした状況を目の当たりにしていると、治療技術だけが失伝と無関係とは思えません。

学び、遺す。簡単に言えばインプットとアウトプットですが、何にインし、何からアウトするのかといえば、それは自分ということであり、学びというインプットは自分の中で熟成され、智恵という形でアウトプットされます。その熟成のことを自分磨きと呼びます。

常にインプットとアウトプットの動きがあれば熟成されますが、動きなく滞ってしまうとそれは腐敗です。

円熟と呼ばれる年の重ね方をすることが、治療においても武道においても目指したいところです。

雑記

Posted by koma-hiro