踏み込む稽古

今日は「踏み込む」をテーマに合気道の稽古。

踏み込みの有る無しは技のかかり方で検証します。踏み込めていればすんなり技がかかり、踏み込めていなければ相手に抵抗されます。

踏み込むことはシステマの表現だと「快適な位置にいる」が近いのではないかと思います。

踏み込むのに必要な要素は3つ。

快適な位置、快適な自分の状態、相手を認識すること、です。

快適な位置というのは立ち位置や物理的な距離感も含みますが、それ以上に相手と自分の関係性の中心に自分がいることが重要です。

そのために必要なのが快適な自分の状態。相手との関わり合いの中で、自分の姿勢が、呼吸が、意識が乱れるとそこで生まれた緊張が相手とぶつかってしまいます。無造作な動きや関わり方も同じです。

相手とぶつかる動きを生むものはもう一つあり、それが相手を無視して動くことです。この場合の無視は相手を認識しない、あるいは認識したつもりで勝手に動くこと。関わり合いの中で相手を置いてけぼりにしてしまっては何も生まれません。

まとめると「踏み込む」とは「相手ときちんと向き合いながら、自分も楽な状態で、お互いの関係性の中で快適な位置に進むこと」です。

この「踏み込む」という表現自体は現在学んでいる活法で聞いたのですが、治療家にとっては大切な要素であることは言うまでもないことだと思います。

この「踏み込む」をどうやって稽古するかというと、武道など学ばなくても皆やっているはずです。

それは「挨拶」です。

挨拶は本来仏教用語で、師匠が弟子の成長をみる、といった類の意味があるそうです。

最近は「挨拶は基本」と言われる一方で、挨拶とは声を出すこと、のような認識をされているケースもある気がします。

本来は相手との関わり合い、コミュニケーションとして互いに快適な位置に踏み込み、互いの関係性を崩さずに声を掛け合うのが挨拶であろうと思います。

師弟関係にあっては挨拶を通して師匠の間とリズムを学ぶ修行の一環であり、師匠と弟子という関係を崩しもせず踏み越えもせず、互いに良い位置、良い距離で挨拶をすることを目指す。そこに至る自分のあり方が変わっていく過程を成長と呼ぶのだと言えます。

最近悪い意味で使われるようになった「空気を読む」という言葉も、本来はお互いの関係性を快適に保つために踏み込みの深さを変えていくことであり、「気遣い」「気配り」と同じ性質のものであろうと思います。

そこには相手との関係性を構築していくという前提がありますが、現代で言うところの「空気を読む」は相手と関わり合うことから逃げる要素を含んでいます。この2つを取り混ぜて「空気を読む」と一括りにしてしまっているところに言葉を使うことの難しさを感じます。

「踏み込む」ことは自分という存在をオープンにして相手と関わっていくことが必須です。武道の稽古ではそこからがスタートであるとも言えます。

武道の強さとは「自分を開く強さ」であり、それが戦いにおける精神的な強さ、胆力、自分の道を生きる等々、様々に自分の持つ可能性を引き出すことにも繋がります。

武道においては戦うこと、勝つことは目的でも何でもなく、戦うという行為自体すら自分を開き、自分に適った道を見出すための方法の一つに過ぎませんし、必須のことでもありません。

踏み込むことはコミュニケーションそのものであり、そこに言葉はあってもなくても構いません。

「以心伝心」とは互いに踏み込むことで成立するコミュニケーションの高等技術です。互いの関係性に踏み込みもしないで「言わなきゃ何も分からない」と断じてしまっては何も見えてはきません。

日々の挨拶でしっかり相手と向き合う。

そうした小さな心がけでも時間をかけていくと少しずつその人のあり方を変えていきます。

1人1人のあり方が少しだけ変われば、世界のあり方も少しずつ変わります。

そんなことに繋がる稽古でした。

雑記

Posted by koma-hiro